ニホンザル(日本にいる猿)が大嫌いな理由とは?

サル

ニホンザル(日本にいる猿)が大嫌いな理由とは?

私はニホンザルが大嫌いだ。なぜかと言うと、ニホンザル達の存在自体が私の日常に不快感をもたらしているのだ。まず、ニホンザル達の顔を見るだけで何となく胸がムカムカする。まるで鏡を見ているような、人間とそう変わらないその顔立ち。しかし、その目はどこか人間の計算高さや狡猾さを感じさせ、信用できない。

そして、温泉地などで見かける彼らのマナーの悪さ。何も考えずに人間の食べ物を盗む姿は、まるで無法地帯の悪党のようだ。その上、彼らの集団行動はまるでギャングのよう。一匹が食べ物を見つけると、あっという間に仲間が集まり、まるで一つの食べ物を争うように奪い合う。人間の視線を気にせず、ただ自分たちの欲望だけを追求するその様子は、まるで私たち人間の醜い面を見るようで不快だ。

また、彼らの声。特に繁殖期になると、森の中から聞こえてくるその絶叫は、まるで夜の悪夢のよう。あの声を聞くだけで、私の夜は眠れなくなる。それに、彼らが集団で木の上を移動する際の音は、まるで地震のようだ。心地良く森を歩いていると、突如として彼らの存在を感じるのは、まるでサスペンス映画に出てくるような恐ろしい体験だ。

私は、彼らが自然の中で生きることには何の問題も感じない。しかし、彼らが人間の生活圏に入ってきて、私たちの生活を乱すことには強い不快感を覚える。彼らには彼らの世界があるはずだ。それに、私たち人間も彼らの生活圏を尊重すべきだ。しかし、互いのテリトリーを侵すようなことは、どちらにとっても望ましくないのではないかと思う。

総じて、ニホンザルが私の心に及ぼす影響は深い。彼らの存在は私にとって、日常の中の一つのストレスとなっているのだ。

その不快感は、ある冬の日に特に深まった。私は友人たちとの山歩きの途中、小さな休憩所で昼食を取ることになった。私たちが楽しく食事をしていると、ある物音に気づいた。振り返ると、ニホンザルの一団が、私たちの背後からこちらをじっと見つめていた。その目は、食事を狙う猛獣のように輝いていた。

私たちは、彼らに興味を示すことなく、食事を続けたが、その緊張感は説明できないほどだった。突然、一匹の猿が走り出し、私の友人の手元のサンドイッチを奪って逃げていった。その瞬間、まるで時間が止まったかのような静寂が訪れた。そして、あたりは再び猿たちの騒ぎ声で溢れた。彼らはそのサンドイッチを奪い合い、最終的には一匹が持ち去った。

私たちは驚きと怒りで固まっていたが、同時に彼らの野生の力を痛感した。人間としてのプライドが傷つけられた感じだった。彼らにとっては単なる食事の奪い合いだったのかもしれないが、私たちにとっては、自分たちのテリトリーが侵されたような感じがした。

その日以降、私のニホンザルに対する感情はさらに冷めていった。私は彼らの存在を受け入れることができず、彼らが私の視界に入るたびに不快な気分になるようになった。

私は自分のこの感情を理解しようとした。彼らもまた生きるために食べ物を求めているのだ。彼らが何も知らずに私たちの生活圏に入り込んでくることは仕方ないのかもしれない。しかし、それでも私の心の中の不快感は変わらなかった。

結局、私とニホンザルとの間には深い溝があることを認識するようになった。私たちは共存することはできるのだろうか。私の中の感情としては疑問符がつくが、彼らとの距離をどのように保つべきか、今後の課題として考える必要があるのかもしれない。

しかし、ある日のこと、その考えは少し変わり始めた。私は地元の小学校で開催された環境教育の講演に参加することになった。その講演のスピーカーは、ニホンザルと人間の共存についての研究をしている生態学者だった。

彼の話を聞くと、ニホンザルが私たち人間の生活圏に入ってくる背景には、実は彼らの生息地が人間によって狭められてきたこと、食糧の供給が減少してきたことなど、さまざまな要因があることを知った。私たち人間が森を切り開き、都市を拡張していく中で、彼らの生活の場が奪われてきたのだ。彼らが食べ物を求めて人間の近くにやってくるのも、彼らにとっては生きるための最後の手段なのかもしれない。

また、彼はニホンザルの社会性や家族愛、コミュニケーション能力の高さなどについても語ってくれた。彼らが争っているように見える行動も、実は彼らなりのコミュニケーションや家族間の絆を深めるためのものだった。

その話を聞いて、私はニホンザルを単なる迷惑な存在として見るのではなく、彼ら自身も生きるための戦いをしている生き物として見ることができるようになった。もちろん、彼らが私の食事を盗んだり、騒ぎ声を上げることに対する不快感は変わらないが、彼らに対する理解の度合いは少し深まったように思う。

今後は、彼らとの共存のための方法を模索していきたい。彼らとの距離感をどう保つか、どのように彼らの生息地を守っていくかなど、多くの課題があるが、それを乗り越えて、彼らとの共存を実現していきたいと思っている。

数ヶ月後、私は地域の有志と共に「ニホンザルとの共生プロジェクト」を立ち上げることになった。最初は小さな活動から始めた。例えば、地域の住民や観光客に対して、ゴミのポイ捨てをしないよう啓発活動を行ったり、猿の食事を乱すような人間の行動を避けるための啓発パンフレットを配布するなどの活動を始めた。

次に、猿が安全に食物を探せる場所を作るため、山の中に猿のためのエリアを作り始めた。食物を供給することで、彼らが人間の生活圏へと侵入することを減少させる狙いだった。

プロジェクトが進む中で、私たちは多くの困難に直面した。例えば、食物供給エリアの場所選びや資金集め、地域住民の理解を得ることなど、多くの問題に直面した。しかし、私たちの活動の意義や目的をしっかりと伝え続けることで、少しずつ地域の人々の協力を得ることができるようになった。

ある日、私はプロジェクトの一環として、地域の小学校で子供たちに猿との共生についての授業をする機会を持った。子供たちは猿に対する興味津々な様子で、猿との関わり方や共生についての質問をたくさんしてきた。私は彼らの純粋な疑問に答えながら、未来の世代が猿との共生の重要性を理解し、続けていくことの大切さを感じた。

プロジェクトを通じて、私はニホンザルとの関係を見直すことができた。彼らとの間にあった深い溝は、理解と努力によって少しずつ埋められていると感じる。私たち人間とニホンザルは、互いに違う生き物でありながら、同じ地球上で生きる仲間である。共生の道を進むことで、私たちの生活がより豊かで平和なものになることを信じている。

年月が経ち、私たちのプロジェクトはさらに広がっていった。他の地域からも、私たちの活動に興味を持ち、類似の取り組みを始めるところが増えてきた。テレビや新聞で取り上げられることも増え、全国的な動きとなりつつあった。

そんな中、私は一つの大きな出会いを経験することとなった。それは、かつて猿に食事を奪われたあの日の事件をきっかけに、私の中で猿への不快感が芽生えた友人、タカシだった。彼はその後、海外の大学で生態学を学び、さまざまな国で野生動物の保護活動を行っていた。彼からのメッセージには、私たちのプロジェクトに参加したいという内容が書かれていた。

タカシは私たちの活動に深い興味を示し、彼の海外での経験や知識を活かしてプロジェクトをさらに進めてくれた。彼の協力の下、私たちは猿の生態や行動に関する深い研究を行うことができるようになり、地域の猿との関係をより良好にするための新しい取り組みを考案することができた。

また、タカシの提案で、私たちのプロジェクトは国際的なものとなり、海外の研究者や保護団体との協力関係を築くことができた。私たちの活動は、日本だけでなく、世界中の人々に影響を与えるものとなっていった。

私がかつて猿を嫌っていた頃を振り返ると、今の自分とは信じられないほどの変化を感じる。私と猿、そして私たち人間と猿との関係は、理解と努力を重ねることで、大きく変わることができると実感した。これからも、私はこの地球上のすべての生命と共生していくことの大切さを伝え続けていくつもりだ。

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