フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由とは?

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フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由とは?

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由1.何十年も同じことをし続けるから。

さあ、最近ちょっと思ったんだけど、フルコンタクト空手、特に極真空手って、正直な話、ちょっとオワコンじゃないのかなって感じる時があるんだよ。なんでかって言うと、ずっと何十年も同じことをやり続けてる感じがするんだよね。

みんな極真空手の創始者・大山倍達先生をリスペクトしてるのは分かるんだ。あの先生の技術や精神は、間違いなく素晴らしいものだった。でも、それが故に、現代の極真空手は大山先生の築いたものを守り続けるあまり、新しい風を取り入れるのが遅れてるんじゃないかと。

例えば、総合格闘技や他の新しい格闘技が登場して、色々な技や戦術が進化している中、極真空手は基本的に同じカタや技術を繰り返して練習してるよね。その繰り返しには意味があると思うけど、それだけで現代の格闘技の世界で通用するのかって考えると、少し疑問に思うこともあるんだよね。

昔の極真空手の戦士たちは、その時代の最強だった。でも、時代は進化してる。新しい技術やトレーニング方法が出てきてる。それに対応して進化しないと、どんどん過去のものになってしまうんじゃないかと。

まあ、極真空手がオワコンだって言うわけじゃない。ただ、時代に合わせて変わる勇気も必要だと思うんだよね。継承することも大切だけど、新しい風を取り入れることで、もっと極真空手も魅力的になるんじゃないかなって思うんだよね。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由2.師範が絶対的な権力をもっているから。

さて、もう一つね、フルコンタクト空手、特に極真空手がちょっとオワコン感があると思われてる理由について語るよ。それはね、「師範が絶対的な権力を持っている」って点なんだよ。

まあ、日本の伝統的な武道って、師範や先生の言葉が絶対っていうのは昔からの文化だよね。それ自体は悪くないと思うんだ。だけど、極真空手の場合、師範の権力が強すぎるところもあるんじゃないかって感じるんだ。

例えば、道場での稽古内容や試合のルール、さらには昇段試験の基準まで、師範の意向が強く反映されることが多い。そのため、師範の考えや技術が新しくないと、その道場全体も新しい風が吹かない。そして、新しいことに挑戦しようとする生徒がいても、伝統を重んじる師範の考えにブロックされてしまうこともあるんだよね。

確かに、師範の経験や知識は尊重すべきだと思うけど、それが絶対っていうのはどうかな。時代とともに変わる格闘技の世界で、一つの考えだけを固守していると、どんどん遅れを取るだけじゃないかと。

最後に、極真空手がオワコンだとか、師範の考えが古いとか言いたいわけじゃないんだ。ただ、時代の変化に柔軟に対応して、より良いものを追求する姿勢が大事だと思うんだよね。それが、本当の武道の精神なんじゃないかな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由3.空手が強くても、貧乏なままだから。

さて、極真空手に関するオワコン論、第三の理由を話すとすれば、これはちょっと痛いところになるけど、「空手が強くても、経済的には豊かになれない」という点だよ。

極真空手、もしくは他の伝統的な武道を学ぶことで、身体や心の成長、また自分の限界を知る経験は非常に価値があると思うんだ。でもね、実際のところ、これだけで食っていくのは難しいんだよね。プロの格闘家になることを目指す人たちもいるけど、その中でトップに君臨することができるのはほんの一握り。残る大多数の選手は、多大な努力をしても大きな賞金を手に入れることは難しい。

さらに、師範として道場を持つという道もあるけど、そんなに楽ではない。近年、総合格闘技やフィットネスブームの影響で、伝統的な武道の道場は新規生徒を獲得するのが厳しくなってきてる。料金を上げれば生徒は離れ、下げれば経営が厳しくなる。そんなジレンマに悩む師範も多いんだ。

とはいえ、金銭的な成果を求めて武道を始める人は少ないと思うよ。でも、強くなりたい、上を目指したいと思って頑張る中で、経済的なリアルに直面すると、やはり「強くなっても、生計は立てにくい」という現実に打ちのめされることもあるんだ。

まあ、結局のところ、武道はお金のためじゃなく、自己成長のためにやるものだと思うけどね。ただ、現代の生活と照らし合わせると、金銭的な側面を無視することはできない。その辺りの現実が、極真空手がオワコンと言われる一因なのかもしれないな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由4.空手を極めても、全盛期のマイクタイソンに勝てないから。

さあ、極真空手のオワコン論を深掘りする中で、第四の理由に触れてみるよ。それは、「空手を極めても、全盛期のマイク・タイソンには勝てない」というものだ。

聞こえはちょっと笑えるかもしれないけど、実はこれ、格闘技ファンの間でよく取り沙汰される話題なんだよね。まあ、極論を言ってしまえば、どんな武道を極めたとしても、全盛期のタイソンのような生まれつきのフィジカルや、ボクシングのテクニック、そしてそのアグレッシブな闘志には勝てないんじゃないか、ということ。

極真空手は、強烈な打撃技や、耐久力を要求される稽古で知られている。でも、それがリングの上のプロボクサーと真っ向からぶつかった時、果たしてどれほど通用するのかという疑問が浮上してくる。

もちろん、空手とボクシングは基本的に異なるスポーツで、比較するのは少々ナンセンスかもしれない。でも、格闘技や武道をやってる人間にとって、自分が日々励んでいる技術や体力が、実際の実戦でどれだけ通用するのかというのは、常に気になるところだろう。

そんな中、全盛期のマイク・タイソンという、まさに”破壊の神”とも称されるような存在が立ちはだかると、無意識のうちに「自分たちのやっていることって、果たしてどれほどの価値があるのだろう」と考えざるを得なくなる。そして、そこに少しの不安や疑問を感じることで、”オワコン”という言葉が囁かれるのかもしれないね。

だけどさ、僕は思うんだ。格闘技や武道の価値って、他者との比較じゃなく、自分自身の成長や変化にあると。マイク・タイソンに勝てないからといって、極真空手の価値が下がるわけじゃない。大切なのは、自分自身との戦いで、今日よりも明日、さらに成長することだと。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由5.昇給審査の回数が多すぎて、お金がかかるから。

そろそろ極真空手の”オワコン”論、第五弾をご紹介しようか。今回のトピックは「昇給審査の回数が多すぎて、お金がかかる」問題だ。

まず前提として、極真空手だけじゃなくて、多くの武道・格闘技で昇級や昇段の審査が行われているのは知ってるよね? それ自体は全然問題ない。技の習得度や実力を確認するための大事なプロセスだからさ。

でも、極真空手の一部の道場や団体で問題視されているのが、昇給審査の頻度とそれに伴う費用だ。ある程度の技術や知識を身につけるまでの初心者〜中級者の段階で、短期間に何回も審査が行われる場合があるんだ。そして、その都度、審査料がかかるわけ。

僕らの年代から見ると、子供の頃の空手の稽古代や、昇級審査の費用って、今よりもずっと手頃だった気がするよね。しかし、今は審査料が上がってきている上に、審査の回数が増えると、年間でかなりの出費になっちゃう。特に、家計が厳しい家庭や学生さんにとっては、それが継続的な稽古のモチベーションの足かせになることも。

もちろん、高い技術や知識を求められる上級者になれば、審査の間隔は広がるし、それだけの価値があるのかもしれない。でも、初心者が楽しく続けられる環境を作ることも、道場の存続や格闘技文化を守るうえで大切だろう。

そんなわけで、この「昇給審査の回数と費用」問題も、極真空手が”オワコン”と囁かれる理由の一つとして、指摘されることが多いんだ。でもさ、確かにお金は大事だけど、それ以上に大事なのは、自分が楽しんで稽古を続けられるかどうか。そのバランスを取ることが、今の武道・格闘技界には求められているんじゃないかな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由6.極真空手しかできない人間になってしまうから。

さて、極真空手の”オワコン”論、第六弾を皆さんにお届けするときがきたようだね。今回の焦点は「極真空手しかできない人間になってしまう」という点。ちょっと辛口な話になるかもしれないけど、一緒に考えてみようか。

まず、極真空手って、独自の哲学と厳しい稽古があって、それが魅力とも言えるんだよね。一つ一つの技の研究、実践的な組み手、そしてなによりもその強さ。これらは極真空手の持つ「ブランド」としての価値だろう。

でも、問題はそこに囚われ過ぎること。一つのスタイル、一つの方法論に固執しすぎて、外の世界を見失ってしまうんだ。他の武道や格闘技、あるいは他の極真空手の流派との交流が少なく、自分たちの方法だけが正しいという固定観念に陥ることもあるよね。

実際、今の格闘技の世界は多様化している。MMAや総合格闘技のように、様々な技やスタイルを取り入れて戦う時代。このような環境下で、一つのスタイルだけに特化しすぎると、そのスタイルの限界も明確になってくる。極真空手だけが全てではないという現実を、目の当たりにすることもあるわけさ。

さらに、そうなると「極真空手マン」と揶揄されるような、極真空手の世界だけで完結してしまう考え方になりがち。そんな閉鎖的な思考は、自分自身の成長を止めてしまうリスクがあるんだ。

でも、これは極真空手だけの問題じゃないよ。他の武道や格闘技でも、同じような傾向は見られる。大事なのは、自分のスタイルや流派を尊重しつつも、外の世界に興味を持ち、新しいものを取り入れて進化する姿勢。これが、現代の格闘家に求められるものじゃないかな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由7.極真はボクシングよりも強いと思い込んでしまうから。

さて、極真空手の”オワコン”論、第七弾。今回は、ある思い込みについて触れてみたい。「極真はボクシングよりも強い」という、ちょっとした迷信のようなものについてだ。

極真空手を習っていると、その強靭な稽古と厳格な指導の中で、自然と「自分たちは強い」という自負が芽生えてくる。それはそれで良いこと。自分の稽古の成果に自信を持つのは、武道家としての成長を感じる瞬間でもあるからね。

だけど、問題はそれが「絶対的な強さ」と勘違いしてしまうこと。特に、他の格闘技や武道と比較した時の話だ。「ボクシングなんて、極真空手には敵わない」というような考え方は、正直言ってちょっと古臭いんだよね。

まず、極真空手とボクシングは、基本的にルールが違う。ボクシングはパンチのみ、極真空手は蹴りや突き、膝蹴りなど、多様な技がある。単純にどちらが強いかという比較は、りんごとオレンジを比べるようなもの。無意味だよね。

それに、ボクシングはパンチ一つを取っても、非常に深い技術と戦術がある。ジャブ、ストレート、フック、アッパー… それぞれの距離や角度での打ち方、相手の動きを読んでのカウンターなど、極めるべき要素が無数にある。極真空手だけをやってきた人が、ボクシングのリングで即戦力になれるとは、とても思えないんだ。

最後に、実際のストリートファイトの状況を想像してみよう。ボクサーと極真空手家が対峙したとして、どちらが有利かは一概には言えない。状況や距離、技の選択、心の持ちよう、これらが勝敗を分ける要因となるだろう。

結局、極真空手がボクシングよりも絶対的に強いというのは、単なる思い込み。どちらも、その道を極めた者たちが尊敬に値する、深い武道や格闘技なんだ。互いに学び合い、尊重しあうことが、真の武士道ではないかな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由8.キックボクシングは顔面の攻防があるから。

そろそろ「極真空手はオワコン」という話の第八弾に突入するわけだが、今回取り上げるのは「キックボクシングの存在」についてだ。

さて、極真空手といえば、フルコンタクトで硬く、リアルな打撃を売りにしている。それが極真の魅力の一つでもあるわけだが、じゃあなんでキックボクシングが極真の”オワコン”要因として挙げられるのか。その答えは、シンプルに「顔面への攻防」にあるんだよ。

極真空手では、実際の試合で顔面への直接の打撃は禁止されている。もちろん、これは安全を考慮したルールだし、それによって他の部位への打撃がむしろ本気で打てるというメリットもあるんだけど、ここで問題なのが「実戦感」の部分。

キックボクシングでは、ガードをしっかりとって顔面を守ること、そして相手の顔面を狙って打撃を仕掛けることが当たり前。つまり、実戦に近い状況での攻防が日常的に行われているわけだ。これがキックボクシングの大きな魅力とも言える。

一方で極真空手では、顔面への攻撃がないため、必然的に実戦感が減少してしまう。実際のストリートでのケンカや自衛の状況を想像してみれば、顔面への攻撃は非常に多い。その状況に対応する訓練が極真空手の中で欠けていると感じる人も多いんだ。

もちろん、極真空手には他にも多くの魅力や、他の格闘技にはない独自の要素がたくさんある。だけど、現代の格闘技界での「実戦性」を追求する流れの中で、極真の顔面への攻撃の禁止ルールは、正直なところ少し時代遅れに感じる部分もあるんだよね。

まあ、どの格闘技も、それぞれの良さや特色があるわけだし、一概にこの格闘技が最強とは言えない。けれども、極真空手がこれからも時代の先端を走り続けるためには、ルールや訓練の方法にもう少し柔軟性が必要かもしれないな。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由9.大会で好成績をのこした人間がえらいという価値観があるから。

ああ、ここまで来ると、さすがに極真空手に対する批判点が尽きないって感じだよな。まあ、次に挙げるのは、オワコン理由の第九弾、「大会の成績重視の文化」についてだ。

極真空手の界隈での価値観って、大体「大会でどれだけ上位に食い込んだか?」ってところに集約されがちだよね。もちろん、大会での実績はその人の実力や努力の証明であり、尊敬する部分は多いんだけど、それだけが全てってわけじゃないだろ?と思うんだよ。

競技者としての実績が高ければ、道場での地位や権力も手に入りやすい。新たな門下生を集めるための看板にもなるし、商売としても成功しやすい。だから、自然と大会での勝利が一番の目的となってしまい、それ以外の価値観が疎かになることもある。

しかし、空手の本質って、ただの勝ち負けだけじゃないよな。自分自身を高めるための道であり、心や技を磨くためのもの。それを忘れ、ただ大会での成績だけを追い求める文化が根付いてしまうと、それ以外の重要な部分が見えなくなってしまう。

例えば、極真空手の技の美しさや、相手を尊重する心、また稽古を通しての人間関係の築き方など、大会での勝ち負け以外にも学べることはたくさんある。だけど、大会成績が全てという価値観が強くなると、それらの大切な要素が影を潜めてしまうんだ。

だから、時折、一歩引いて、極真空手を取り巻く文化や価値観を見直す必要があると思うんだ。大会での勝ち負けだけが全てじゃない、もっと広い視野で空手を楽しむことができるはずだからさ。

フルコンタクト空手【極真空手】はオワコン理由10.日本人の中だけで空手最強になってもしょうがないから。

さあ、オワコン理由の第十弾だ。今回はちょっと大胆に「国内での最強を目指す意味」に触れてみたいと思うんだ。

極真空手って、やっぱり日本が発祥の地だよね。だから、当然と言えば当然、国内での評価や地位を重視するのはわかる。でもさ、今の時代、スポーツや武道、何をとっても「国際化」が進んでる時代だよね。

「日本一」と言われると、もちろんそれはすごいこと。でも、それって結局、日本の中だけでの話。国外の強豪選手や他の格闘技と比べたら、どうなんだろうという疑問が出てくる。MMAやK-1なんかの舞台に登場する海外のファイターたちは、さまざまな技術や経験を持ってるから、それと比べてみて「本当に自分は強いのか?」と自問自答することも必要だと思うんだ。

要は、日本だけの空間で、日本だけの価値観で、日本一を目指すのは、ちょっと狭い感じがしちゃうんだよね。まあ、世界の舞台に立つのは簡単じゃないし、それぞれの選手にはそれぞれの事情や目標があるから、一概には言えないけど。

でも、もし本気で「空手の最強」を目指すなら、日本だけではなく、世界の舞台で試されるべきだろう。そうしないと、真の実力を知ることはできないし、さらなる向上も期待できない。まあ、世界には色んな強豪や技術があるから、その中でどれだけのことができるか、それが真の実力ってものだろうさ。

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